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| 第14回 |
| 除夜の鐘 |
| そして新年 |
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吐く息も白く、そして花壇のパンジーも霜で真っ白に凍える寒い朝、今日はキリストの生誕祭。
でもベースキャンプの朝はやっぱりこれでしょ、
今年最後の法話は除夜の鐘と新しく迎える年について。
大晦日に鳴り響く除夜の鐘、この108という数は一般に人間の煩悩の数だとされている。
人間の感覚を司る眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好・悪・平があり、その18種類それぞれに浄(じょう/きれい)・染(せん/きたない)があり36種類。 これが前世・現世・来世の三世で計108の煩悩だというわけだ。
しかしほかにも、月の数の12と二十四節気の24、七十二候の72を加えた数で1年間を表すという説や、四苦八苦を取り払うということで4×9+8×9=108、はたまたインドでは数が大きいことを示すのに108を用いるなど諸説は様々。
そもそも「正月」というのはそれぞれの家で「正月さま」と呼ばれる年神(としがみ)=先祖の霊をお迎えする行事。気持ちよく新しい年を始めるためにも、自らの煩悩へのこだわりを捨て、今年1年を振り返り、全てのものに感謝の念を持ちながら「ゴーン、ゴーンウォン(御恩、御恩)」と鳴る鐘の音を撞く(聞く)のである。
また、除夜の鐘は108回全てを旧年のうちに撞くのではなく、最後の1回は新年に入ってから撞くのが決まりらしい。毎年、テレビで除夜の鐘の中継を見るたびに抱いていた疑問がひとつ解けた。でも、あれって確か一般の人も参加するはず。中にはどんくさい人もいれば、いらちの人もいるだろうにぴったり時間を合わせるのって難しくないのだろうか。
そういえば以前、大晦日の日付が変わる時報と同時に終わるようにボレロを演奏するというコンサートがあったな…。
今年は近所のお寺の鐘の音、耳ダンボで聞いてみよう。
もちろん感謝の気持ちを込めて!!
皆さま、どうぞ良いお年を。 |
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2005.12/25 |
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| 第13回 |
| 法話 |
| あれこれA |
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月1回の禅澄法話もいよいよ2年目に突入。
天気予報大ハズレの大雨・雷の邪魔もなんのその、今日も法話は大盛り上がり。
仏教最大の教えである不殺生をテーマにした4話に加え、禅宗の僧侶として名高い仙崖(せんがい)さんの逸話より七福神について、そして鬼子母神のお話と、前回に続いて盛り沢山の内容。
よく身内に不幸が出た場合(仏式で葬儀を執り行うと)、1年は神様にお参りしてはならないと言われるが、これは必ずしも正確ではない。七福神の毘沙門天、弁財天、大黒天のように「天」がつく神様は、日本古来の神様と違い主にインドから伝承され本来仏様を守護する役目を担う。
また、中国で実在した僧侶をモデルとした神様や道教の南極星の化身(なんだそれは?)とされる神様もいる。他にも、様々な経緯で現在日本で神様として奉られている場合もあるので一概に神社がダメというわけでもないようだ。ただし、「大丈夫かな、罰が当たらないかな」とふわふわした気持ちで臨むのでは逆効果。
罰が当たるのも辞さない覚悟でなら大丈夫との事。
まあ、神様・仏様が他の神仏を参ったからって怒るような心の狭い方だとは思いたくないが…、
何事にも己の信念が大事ということで。
そういえば、以前何かの文献で寿老人と福禄寿がもとは同じで…という説を読んだが、
よく理解できなかった記憶がある。ただめでたい象徴と思うことなかれ。
七福神には色々な説や謎が多く、なかなかに奥深いのだ。
帰ったらもう一度、引っ張り出して読んでみたほうがよさそうだ。
最後にお話いただいた八代将軍徳川吉宗と大岡越前とのやりとりも鋭いところを突いている。
曰く、真実・真とはだるま(おきあがりこぼし)、うそ・偽りとはこまのようなものであると。
如何にその場をうまく逃れようとも、最後に凛と立つその姿を誇るのは真実だけなのである。
だるまのように七転び八起き、最後にはちゃん立っていたいもの。 |
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2005.11/27 |
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| 第12回 |
| 法話 |
| あれこれ@ |
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朝晩めっきり冷え込むようになり、布団から出るのがちょっと(かなり?)億劫になってきたこの季節。眠い目をこすりこすりお迎えするスタッフとは逆に、朝から非常に元気な禅澄さんとお客様方。
今回は禅澄さんの豊富なレパートリーの中から様々な法話を一時に聞かせて頂ける
貴重なチャンスとあって、皆さん楽しみにされていたよう。
一生懸命に取り組めば必ず仏様が後押ししてくれるという
「中山君」や昔話でも有名な姥捨て山のお話「父母恩重経」など子ども向けの法話に始まり、
有名な「一休さんのまがった松」、今までの法話にも登場した「白楽天と鳥巣禅師の問答」や
「念仏ばあさん」「蜘蛛の糸」など、楽しくも心に響くものばかり。
ここでは、その中からひとつ「泣きばあさん」をご紹介。
京都のあるお寺の門前になぜか毎日のように泣いているおばあさんがいた。
あるお天気の良い日、いつものように泣いているおばあさんに
お坊さんが「なぜ泣いているのか」と声を掛けた。
するとおばあさんは「こんな晴天ではかさ売りをしている息子が儲からない」と言う。
ところが別の日、雨が降っているというのにおばあさんはまた泣いている。
理由を聞くと今度は「雨の降ると草履売りをしている息子が儲からない」と言って泣く。
そこでお坊さんは一計を案じた。
曰く、「晴れの日は草履売りの息子が儲かり、雨の日はかさ売りの息子が儲かると思ってみてはどうか」と。
それ以来、泣きばあさんは「ニコニコばあさん」へと姿を変えたという。 |
とかく物事を悪い方へと考えてしまいがちな私たち、
ほんの少し考え方を変えてみるだけで人生は意外と簡単に楽しくなるものなのかもしれない。 |
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2005.10/30 |
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| 第11回 |
| ひがん |
| はらみつ |
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暑さ・寒さも彼岸までとはよく言ったもので、この時期になると途端に風も涼やかさを増してくる。そこで今日の法話は「ひがん」と「はらみつ」という言葉について。
「ひがん」はともかく「はらみつ」って一体何?という人も多いはず。(私だけか?)
「彼岸」とはもともと「パーラム」を語源とし、浄土・悟りの世界を指す。
この彼岸=パーラムに「渡る」という意味の「イター」をたして、パーラミター(波羅蜜多)。
これを略してハラミツ(波羅蜜)という。
(ここでようやく「仏説摩訶般若波羅蜜多」に思い至った皆さん、私と一緒です。)
さて、この彼方の岸である悟りの世界は仏教のそもそもの根本精神である中道(偏らない道)である。そこで、昼と夜の長さが同じとなる春分・秋分の時期をお彼岸として悟りの世界へ渡るために下の六つ(六波羅蜜)を実践する時とした。
| 檀=布施 人に施しを与える(水) |
| 戒=持戒 きまりを守る(香) |
| 忍=忍辱 苦しみに耐える(花) |
| 進=精進 怠らない心で励む(焼香) |
| 禅=禅定 静かな心、心を乱さない(供物) |
| 慧=智慧 正しい考え、かたよらない心(灯明) |
本来ならば、お彼岸の時期に限らず毎日するべきなのだろうが、これがまた難しい。
お彼岸=おはぎ(ぼたもち)を作らなくては!!(主に食べる方なのだが…)という私の思考回路は、
どうやら根本的に間違っているようだ。
…ん?待てよ。そうか、それを供物にすればいいんだ、そうしよう! |
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2005.9/25 |
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| 第10回 |
| 北枕で |
| 寝ると |
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ほのかに夏の終わりを感じる心地よい朝、今日も早くから大勢のお客様にお越し頂いた。
今回のテーマは北枕。
俗に北枕で寝ると縁起が悪いと言われるがそれはなぜか?
お釈迦様が亡くなった時、頭を北に顔を西に向けていたことから、亡くなった人を北枕で寝かすと極楽へ行けるとされていたのが、今度はその死んだ人と同じ格好で寝るのはどうも…ということになったようだ。しかしこれにも別の説があり、死んでから極楽へ行けるとか、日本の地理上日が南側から射すため「頭寒足熱」で中風になりにくいなど、北枕を是とする意見もある。
明治天皇を崇拝し、崩御の際に自らも死を選んだことで知られる乃木将軍は、たとえ床の間に足を向けようとも決して皇居に足を向けて寝ることは無かったという。
何に重きをおくかは人それぞれ、結局の所、個人の考え方次第だということらしい。
この手の俗説は他にも多くあり、仏壇の向きや写真を飾る場所、お墓の形など諸説様々ではあるが、残された人が故人の為を思ってすることに何が間違いということも無かろう。
「王者南面す」という言葉があるように、方角ではとかく南が中心とされがちだが、
これも太陽のある側と考えるのなら南半球では北側になるし、
そもそも暑さの厳しい国々ではかえって太陽は敬遠され月や星が象徴となったりもする。
丸い地球上にいる限り絶対的な方角はありえない。やはり「本来無東西、何処有南北」である。
旅行先では必ず方位を確認し(その割には方向音痴なのだが)、
据付のベッドであっても無理矢理南側に枕を置こうとする迷惑な誰かさんに教えてやるとしよう。 |
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2005.8/28 |
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| 第9回 |
| 極楽と地獄 |
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夏休みとはいえ我々大人にはたいして影響は無いはず…と思いきや、
どうしたことか(失礼な! )今回はいつもにまして大盛況の禅澄法話。
立見でもいいよと、お互いに席を譲りながらお待ちいただいたお客様方、ありがとうございました。
さて、今回はお盆にちなんで極楽と地獄のお話。
昔話にしても小説にしても文学によく登場するのは極楽よりもむしろ地獄。
昔の人はそれだけ地獄に対して深い恐れを抱き、それと同時に仏様に対する信仰心を厚くしていたのだろうが実はこの地獄、極楽よりもはるかに私たちの身近な所にある。
極楽がとてつもなく遠くにあり(ワープ航法のエンタープライズ号でさえ1年以上かかる程)、
阿弥陀如来のお迎えや蓮華で移動しない限り、人が行こうと思っていける所ではない一方、
八大地獄の入り口までは重力落下に任せるとたったの30分足らずでたどりついてしまう。
地獄は地下1千由旬(約8000km)の等活地獄に始まって八層からなり、仏教の教えを破った度合いがひどいほど下層へ送られより過酷な責め苦を与えられることになっている。
堕ちる時は早いというのはこういうことか。
だが、仏教の良い所はたとえ地獄に落ちたとしても救いの道があること。
本人の信仰心や僧侶や遺族の追善供養、
または生前に行った善行によって地獄から脱出できることもある。
有名なところで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」。
地獄に落ちた主人公のカンダタは天から下ろされた蜘蛛の糸によじ登るも、己の保身を図るあまり他の亡者たちを蹴落としてしまい、結局自らの救いの道をも絶ってしまった。
『自分だけ』というのは仏様の最も嫌う考えのひとつらしい。
でもこの話、そんなに心の広い男なら初めから地獄に落ちてないだろうと思うのは私だけ…?
とりあえず、私の時は極太のワイヤーを下ろしてもらうことにしよう。 |
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2005.7/24 |
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| 第8回 |
| 善・ |
| 霊なる心 |
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思わず梅雨の定義を疑ってしまうほどの晴れ続き。
朝とはいえどすでに日はぎらぎらと照りつけ、来られる方は皆さん汗を拭き拭き…。
そこでちょっと涼しくなる話を――というわけではないのだが、今日のお題は「善なる心・霊なる心」、この世ならざるものが見えること(人)についてのお話。
世の中には霊感が強い人と全くそういったことを感じない人とがいる。
修行の成果であったり、生まれつきだったり、身近な人の死をきっかけにしてだったりと、人によってさまざまではあるが、概して霊が見える人というのは心が素直で無邪気、かつ欲の無い人だという。比較的幼い子どもが感じることが多いのはそのためだろう。
遠方からたくさんの来客がある拝み屋の人でさえ、気を抜くとお金のことが頭をよぎりその力が発揮できなくなるらしい。またどんなに力のある人に拝んでもらったとしても、必ずしも百発百中効き目があるとは限らないのも難しい所だが、そうすることで気持ちが少しでも軽くなるのならそれでよいのだとも言える。
ところで霊の方にもいろいろあって、その思いによってなにやら現れ方に違いがあるとか。
亡くなった親が子に会いに来るなど友好的な場合は両手が同じ高さに、一方、恨み辛みを述べに来る時は片方の手が少し高く(いわゆる「うらめしや〜」の格好)なるそうだ。
残念ながら子どものように純真無垢な心を持ち合わせていない私は未だかつてお会いしたことは無いのだが、果たして実際にその時になったらそこまで落ち着いて確認できるか否か。
ある知人は、実家に帰ると決まって下の子どもが何も無い所に向かって「○○ちゃん、バイバーイ」と手を振るのだという。彼女には一体何が見えているのだろうか? 向こうもにっこり笑って手を振ってくれているといいのだけれど。
とりあえず、もしもの時に備えてお経のひとつでも覚えてみるか。
えーと、うちの宗派はっと……あれ?どうやらそれ以前の問題のようです。 |
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2005.6/26 |
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| 第7回 |
| お金の |
| いらない |
| 布施もある |
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前回、次のテーマは「お金のいらない布施もある」だと聞いて
「お花とかお菓子とか…?」と思っていた私は、禅澄さんのお話を聞いて思わず赤面してしまった。私の勘違いの大元は布施=お寺さんに対する謝礼だと思っていた所にあるのだが、
しかし不思議に思って辞書を引いてみると「僧に送る金や品物」と書いてある。
(ほら、やっぱり合ってる…ってそういう問題ではない)ところが、仏教における「お布施」とはそういうものだけをさすのではないらしい。
仏説(=お釈迦様は言った)、
お金や物が無くても相手に喜びを与えることができる「無財の七施」があると。
@眼施 やさしい眼で人に接する
A和顔(悦色)施 にこやかな顔で接する
B言辞施 やさしい言葉で接する
C身施 自分の身体でできることを奉仕する
D心施 相手の人の心になって思いやる
E床座施 席をゆずる
F房舎施 自分の家を提供する
これらのことは、決して見返りを求めて行うものではなく、
布施をしたこと自体を忘れるのが本来あるべき姿だという。
さて、この中に少しでもできていることがあるだろうかと我が身を振り返ってみると、
先述の勘違いともども恥じ入るばかりである。
これではダメだと一念発起して、できるだけ笑顔でいるようがんばっていたら
(がんばってするようなものではないのだが)、
家人に「何か変なものでも食べたのか」と聞かれた。
やはり付け焼刃では不気味なだけだったようだ。
自然な笑顔が身につくのはいつのことやら…。 |
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2005.5/22 |
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| 第6回 |
| 遍路行 |
| いろいろ |
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花粉も少なくなり、お出かけには最高の季節。
往来でも、白装束に大きなザックを背負ったお遍路さんをよく目にするようになって来た。
そこで、今日はお遍路さんにまつわるお話しを聞かせていただいた。
弘法大師ゆかりの寺や地所は全国にあまたあれど、
「遍路」と呼ばれるのはここ「四国八十八箇所」ただひとつ。
それだけ特別な場所であると考えることも出来るのだが、
さてこの88という数字はいったいどこから出てきたのか?
厄年(男42、女33、子18)の和だとする説を始め、煩悩の数だとか、
「米」という字を分解したものだとか、諸説様々ではあるが、禅澄さんはある時はたと気がついた。熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)には王子と呼ばれる休憩所が99箇所あり、日本サッカー協会のシンボルでおなじみの権現様の御使い・三本足のやたがらすは88羽いる。
弘法大師は先人に敬を払ってその数を超えないようにしたのではないだろうかと。
ところで、お遍路ほど様々な宗派の人が入り混じっているところは他にはちょっと無い。
あるおばあちゃんは、近所の人にお遍路を勧めたところ、
「宗派が違うから罰が当たる」といわれ、「もし罰が当たるなら勧めた私が悪い。地獄の針の山だろうと、煮えたぎった釜の湯だろうと私が先に入ってやるからあなたはその後来ればいい。」と諭したという。
ここまでの覚悟と信念を持って祈りを捧げようとする人に罰など下ろうはずが無い。
先日、大阪の四天王寺の特集をテレビで見たが、そこは「和をもって貴し」とした聖徳太子が建立しただけあって、ありとあらゆる宗派の開祖がずらりと一堂に会して参拝者を見守っていた。
宗教って本来そういうものなのだろう。
空の上で仏様や神様たちまでがけんかしてるなんてゾッとしない。
さて、交通マナー同様、お遍路さんたちに今ひとつ評判の悪いこの香川の地。
物騒な事件が相次ぐ中、他者を警戒するのももっともだが、子どもたちに知らぬ人には声をかけるな、返事をするなと教えなくてはならない時代なのかと思うとちょっと気が滅入る。
でも、にっこりと笑ってかけられたその声が、一瞬の狂気を押し止めることもある、
そう信じて我々大人がまずはお手本を見せましょう。 |
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2005.4/24 |
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| 第5回 |
| ボケさん、 |
| ちょっと |
| 待ってね |
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用事をしに行った先で何をしに来たのか思い出せなかったり、
必死で探していたものを実はしっかり手に握っていたり、誰しも一度や二度は自分のまぬけさ加減に大笑いした経験があるはず。しかしこれが頻繁に起こるとなると話は別。
ひょっとして…と妙な不安が頭をよぎり、笑い事では済まなくなってくる。
そこで今回は、その「ボケ」さんに来るのをちょっと待ってもらうための秘訣をお話いただいた。
(まだ、私は若いから…とあなどってはいけない)
ボケるきっかけの多くは、定年、連れ合いの死、長患いだというが、
いずれも生きる張り、生きがいがポイントとなる。
よくしゃべり、よく動き、いろいろな物事への興味や感動を持ち続けていられる人はボケにくい。
俗に、ボケ封じとして言われる「立ったら歩け、座ったらしゃべれ」というのがこれだ。
この話を聞いて「じゃあもっとしゃべらなくちゃ」といった知人がいるが、
大丈夫、あなたはもう充分です。
また脳の活性化と手は密接な関係にあるとされ、
手先を良く使う仕事をしている人には高齢でも元気な方が多いと聞く。
そこで禅澄さんのおすすめ体操。
@ 片手をパー、もう一方の手をグーにし、そこから一本ずつ指折り、指広げを左右同時に行う。
A 片手はグー、チョキ、パー、もう一方の手はパー、グー、チョキの順で一人じゃんけん。
B 片手は二拍子、もう一方の手は三拍子で、同時に指揮をする。
慣れると結構楽にできるそうなので、テレビを見ながらやると良いとの事。
では、私もためしに――、う、できない…。しゃべる方でカバーします。
ところで、禅澄さんを始め、今年は花粉症の人にとってはずいぶんと厳しい状況の様子。
ヨーグルトにすりおろした八朔の皮を混ぜて食べると、粘膜の抵抗力が高まり症状が緩和するという話を聞いたのですが、いかがでしょう。
誰か試してみませんか? |
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2005.3/27 |
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| 第4回 |
| インドと |
| お釈迦さん |
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今回は、皆さんにも馴染みの深い仏教の開祖・お釈迦さまについて、
禅澄さんの計8回にもなるというインド旅行の体験談を交えてお話頂いた。
日本人にとっては、お釈迦さま=仏教のイメージが強いインド。
しかし、実際はインドの仏教徒の数は総人口のわずか0.8%と、ヒンドゥ−教やイスラム教に押され気味の感がある。とはいえ、釈迦自身もシヴァ神をトップとするヒンドゥ−教の神々の中で9番目に位置付けられているので、インドの人々にとっても親しみある神(仏)さまであることには違いない。
さて、このお釈迦さまの説法のひとつに「不殺生」というものがあるが、これが重要なのは仏教でもヒンドゥ−教でも同じこと。
禅澄さんは、インド旅行の折に人々の信仰心の厚さがよく分かる経験をしたそう。
禅澄さん達を乗せたバスが度々、道の途中で停止するのだ。
それも、ヘビが横切っている、前に牛がいる、あげくの果てには蝶が飛んでいるという理由 (ぶつかって死なせてしまってはいけない!!) で…。
生きとし生けるもの全ての命をかけがえのない大切なものとする教えが日本よりもはるかに人々の心に、生活に深く浸透しているらしい。
道理で時間通りにバスが動かないはずだ(笑)。
お話を聞きながら、刃物を持って幼い子供に襲いかかるような連中に、ぜひとも見せてやりたい光景だと思わずにはいられなかった。 インドはもちろんのこと、ネパールやスリランカにも数多く残るお釈迦さまの足跡。禅澄さんの話し振りに惹きこまれて、つい本屋で「インド旅行のすすめ」なるものを手に取ってしまった。そのうちインドに行きたいと言い出すかも…。 |
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2005.2/27 |
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| 第3回 |
| いろは、 |
| 健康訓 |
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朝から冷たい雨のふる中、今日で3回目を迎える禅澄法話、
あいにくのお天気にもかかわらず収容人数をはるかに超える数のお客様が朝からいらしてくださった。
初回で満員、その後毎回増えるお客様に禅澄さんも
「聞き手が違えば同じ話ができるけど、ベースキャンプの法話は毎回半分が常連さん、同じ話が出来ないですね。」と嬉しそうな口ぶり。
現在までのテーマは健康を主体としたもの、3回目の今日は「いろは健康訓」いろは48文字を使った健康の秘訣を一文字づつ丁寧に解説してくださる禅澄さん。
法話とはもっと難しくて理解に苦しむものと思っていた私も、お話の中で出てくるいろいろな経験談、ニュース、時事、お仕事のこと、山のことなど・・聞いているうちにすっかり「楽」に聞ける楽しい法話のイメージが定着してしまっています。
本筋があり、そこから外れていく面白み、ユーモアはそれぞれの話し手の個性そのもの、
もっと話を聞きたいなと思わせるのは禅澄さんの人柄、個性に惹きつけられているからなのかもしれません。
その話し振りと内容で、朝一番の笑いを提供してくれる禅澄法話にココで提案!
1時間お客様がゆっくりと座ってじっくりと話が聞けるように、
そろそろ高松店に畳の法話堂を作るって言うのはいかがでしょうか?実現できないって・・?
でも夢を持つっていうのも立派な健康法ですよね・・禅澄さん。 |
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2005.1/23 |
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| 第2回 |
| 下を見て |
| 暮らすのも |
| 良い |
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Xマスも終わり、年の瀬も押し迫った26日の朝、第2回目の禅澄法話の開催となりました。
第一回目が非常に好評で、「また、くるね。」と笑顔で帰られた前回の参加者のお顔も多く揃い、前回は用事で来られなかった人もこの日を心待ちにされていたとか・・・
用意していた座席もほぼ満席となり、皆さん熱いお茶を飲んでお待ちいただくうちに、
禅澄さんの登場となりました。
禅澄さんには12月の初めに、ベースキャンプが実施しています「遍路道歩き」の第1期生が約4年半かけて結願して、高野山へのお礼まいりに行く際に、
昔ながらの町石道を麓から丁寧に先達として案内していただいたばかりで、
そのお元気さには感心させられるばかりでした。
この日のお話は昔のご自身の体験されたことを、まるでその場に居合わせているかのような臨場感に富んだ、時にユーモラスに会場を笑いを誘いながらも、的を得た視点と「なるほど、そう考えるのか!」という禅澄さんの人間的な大きさを感じる素晴らしい内容でした。
「法話って堅苦しいこともないじゃない。」と今にも聞こえてきそうでした。
当然、ご自身の山歩きでの体験や感じることも話されて、
来ていただいた方へのサービスも忘れなかったあたりは、さすが。 |
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2004.12/26 |
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| 第1回 |
| 長寿の法 |
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はじまりの紹介の後「知っておられる方も・・」と話を始めた禅澄さん。
実はベースキャンプの山歩きの常連様。
法話とは言いながらも極力難しい言葉や専門的用語は抜きにした、
肩の力を入れずに親しめるお話。
「長生きの秘訣」と題したお話も気がつけば先週の山歩きのこと、
また時には幼少時代のことなどを織り交ぜながら独特の口調とお話し振りで、
会場の耳を一点に釘付けに。
「1時間も何を話していいのか・・」と始まった法話もすぐに定刻を迎えてしまい、
時間が足りなかったのでは?と思ってしまうほどあっという間の1時間でした。
お客様の「聴こう、聴こう」とする姿勢が会場の雰囲気を盛り上げたことも事実、
よい雰囲気は話し手をも引き込んでしまう、
どんどん饒舌になっていく禅澄さんのお話を聞きながら会場の質にも驚かされてしまった。
「朝のひととき」第1回目から素晴らしい勉強の場になるなぁと関心のひとときでした。
もちろん、1日の始まりのお話を聞かれたお客さんがみなさん良い顔で会場を後にされたことは言うまでもありません。 |
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2004.11/28 |
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